スタジオ ブルバキ作業日誌

耐社会仕様コンテンツ制作秘密結社 http://bourbaki.nobody.jp/

耐社会仕様とはなにか?

~ 仮定された有機交流電燈における基調講演 ~

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 防水仕様を英語ではwater-proofといいます。 むこうの国ではこの表現のもじりがよくあるのかは知りませんが、たとえば『デス・プルーフ』におけるカート・ラッセルの愛車はまさに耐死仕様(death-ploof)でした。

 ブルバキが目指すのは耐-社会-仕様(society-ploof)のコンテンツを創造し供給することです。

 社会人の誰もが社会について話すとなると、必ずその「耐えられない重さ」を口にします。具体例には枚挙にいとまがありませんが、とりわけブルバキが感じているのは「社交」の重みです。

 ネットの普及ひいてはSNSの発展によりコミュニケーションへの参入コストは格段に下がりました。また人と人との関係も従来型の家族、同僚、友人、恋人などいったものから多様化し、それ以外のあり方も許容されるようになりました。きっと自由度があがるのは良いことなのでしょう。

 しかし一方で、人々があふれかえった社交に疲労してきているのも事実です。自明すぎてことさら言及する必要もないかもしれませんが、いまの世は社交的、あまりに社交的なのです。

 ブルバキはそうした現在の社会状況をcommunication dystopiaだと捉えています。ディストピアとはutopia(理想郷)の反転した形態のことです。

 TOMCATは「TOUGH BOY」で20世紀末を「狂気と希望と幻滅のまっただなか」と表現し、それでも「進まなきゃ」と高らかに歌い上げました。「勢いを増した向かい風の中を」、と。

 2015年の現在、風向きは当時とは変わっています。しかし気づかないうちに向かい風の勢いはますます増しているのです。ゆえに耐社会仕様であることが求められます。

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 では、吹きすさぶ暴風にどう対抗していけばいいのか? キーワードは強度(intensity)と速度(velocity)です。これらの概念を説明するのは難しいので、また先人の言葉を借りましょう。

 阿良々木暦は言いました、「友達を作ると、人間強度が下がる」。また、ストレイト・クーガーは言いました、「速さが足りない!」。つまりは、そういうことです。

 強度と速度は固定できるものではありません。それはあるモノとあるモノのあいだにある度合いでしかない。その流動的な状態、明確なかたちを持たない状態はブルバキ自身にもあてはまります。ブルバキは固有名詞ですが、けっして統一されたひとつの人格を表すものではありません。

 ブルバキとはいわば領域(domain)であり、概念(concept)そのものです。他にもさまざまな言い方ができるでしょう。たとえば宮沢賢治はいみじくもこう言っていました。

「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)」

 この文章の冒頭に置かれた画像を御覧ください。この青い発光体こそがまさしくブルバキのイメージなのです。そしてこの光景は賢治以外にも多義性を孕んでいます。(そういえば妊娠は英語でconceptionと言いますね。)

 さて「青」からまず連想されるのは『アオイホノオ』です。このマンガにおいて天才たちがひとつの場につどい、切磋琢磨する様はスタジオブルバキの理想する姿であります。

 また『青の炎』というのも思い出されます。松浦亜弥、全盛期でしたね。この映画のキャッチコピーは「僕は、独りで世界と戦っている。」でした。しかしフランツ・カフカの言葉を借りてこう言いたい。「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」。

 ブルバキカフカにならって、世界に、社会に対して真っ向から戦うことを放棄します。これはけっしてシニシズムではありません。どういうことでしょうか。

 重度の肺病に苦しみ自宅窓からの投身自殺を果たしたある哲学者は、晩年に著した映画についての浩瀚な書物のなかで「この世界を信じること」を熱く語りました。

 ざっくり言うと、現代人は世界を信じることが出来なくなっている、なぜなら世界が陳腐な映画のようになっているからだ、しかし逆に映画を通してなら失われた世界と人間との絆を回復できるんじゃないか? そういう議論です。

 実際、ブルバキ自信もすぐれた映画に救済されて、かろうじてこの世界を信じることが出来ているといえます。映画に限らずほかのコンテンツにもいつも支えられてきました。だからこそブルバキも社会に疲れた人々に世界を信じてほしいのです。あの名状しがたい感情(affection)を体験してほしいのです。

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 回り道になりましたが、ここでsocial-proofの話に戻りましょう。 社会とは人間と人間の関係に他なりません。そもそも「人間」ということばを「じんかん」と読めば社会の意味そのままになります。アクロニムみたいなものですね。

 さらに飛躍します。『人間の証明』の英題は”Proof of the Man”ですが、ここでsociety-proofとは「人間の青い証明/照明」なのだといえないでしょうか。

 阿良々木暦もストレイト・クーガーも「もう人間じゃない」存在です。「あらゆる透明な幽霊の集合体」にいたっては言うまでもありません。

 そしてブルバキも人間ではありません。しかし世界を、社会を、人間を信じ続けています。society-proofとはそうした意思の表明なのです。ご清聴ありがとうございました。